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  • 躾って、人を思いやる気持ちを形にしたものだと思う。

    高校生の娘の友人が、数人で泊まりに来て、唐揚げと、春巻き40っ個作ったら、家の中がなんだか油臭いような気がして、朝から大掃除。私は匂いに弱いのです。

    でも、いろいろあった高校受験から、ほぼ一年近くたって、娘がとってもいい友達に囲まれ、16歳の青春を精一杯楽しんでいる姿を見られて、本当に良かった。

     

     「お風呂いただきました。ありがとうございました」

    娘の友人の一人が、そう私に声をかけてくれた。

    それだけでも本当にうれしい驚きだったけれど、彼女が使った後のお風呂を見て、改めて感心した。洗面器もタオルもきちんと揃えられ、おまけに使った後を軽くお掃除までしてある。

    当たり前のことだ。当たり前のことだけれども、我が娘はよそのお宅で、彼女のようにちゃんとできているだろうかと、不安になった。

     

    子育ての中で、私が常に自問自答を繰り返したのは、「子供を躾ける」ということだ。

    上の子が幼稚園の頃、あるお友達のお誕生会に呼ばれて、母子で参加させてもらったことがある。

    その時に、他のお友達は、我先にお菓子やケーキに手を付けるのに、娘だけがその輪の中に入っていけない。「あれ頂戴・これ頂戴」と他の子供たちは、自分の言いたいことをはっきり言うのに、娘は黙って座っているばかり。そんな姿に「うちの子は自己主張ができないんじゃないだろうか?」と私は不安になった。

    家に帰ってから、どうして?と聞くと、娘は「ご飯はいただきますを言ってからじゃないと、食べじゃダメってママがいつも言っているから」。

    「躾けって、押しつけ(躾け)。子供の個性をつぶすかもしれない」と、相談したママ友達に言われ、間違ったことを教えているつもりはなかったけれど、他の子供たちが自分の「したいこと」を優先させているときに、娘が一歩で遅れているようなシーンを見るたびに、私の「躾け」は娘を「形にはめてしまっているだけじゃないんだろうか?」と、自問自答の育児だった。

     

    ただ、やっぱり、躾けって決して押し付けじゃないと、この頃思う。

    例えば、仕事においても若いスタッフに「患者さんの気持ちになって、接っしてあげて」と言っても、彼女たちはどうしたらいいかわからないことがある。患者さんの気持ちが分からないのではなくて、分かるのだけれど、具体的にどう表現すればいいのかが分からないのだ。

    気持はあっても、それを形にすることができない。

    これって本当にもったいない。気持は十二分にあるのに、それを表すことができなくって、相手に伝わらない。これって本当にもったいない。

     

    言葉だけでは十分に伝わらない「気持ち」はあるが、反対に、言葉がなくても十二分に「気持ち」が伝わる所作がある。

    その基本が「躾け」なのだと、この頃徒然そう思う。

     

    ○ ○ ○ に入るのは・・。

    竜馬伝、終わってしまいました。こんな時代に本当に、タイムリーな内容で、考えさせられることが多かった・・・。

    毎日のように政治家の醜態を見せつけられて、うんざりしたりイライラしたり・・・・・「竜馬」を観ながら、今の政治家に足りないのは、志なんだとつくづく思う。

    ただ、そんな風に他人事のように思っている私もどうなんだろうと・・・。

    もちろん、政治家になるつもりなんて思ったこともないけれど、「○○○に入るのは、みんなじゃ」って竜馬が言ってたように、「自分ができることを、やるんじゃあ〜」って、竜馬が言ってたように、「夢と望みが溢れる国に」と、たぶん、新しい時代を望んでいた人たちが思っていたように、誰か他人を批判することだけで満足するんじゃなくて、小さくても自分にできる小さなことでも、「志」を持って生きていけば、「夢と望みにあふれる人生」を送れるんじゃないかと。

    そんな後ろ姿を見ていれば、次の世代の子供たちだって、きっと「夢と望みに溢れること」ができるんじゃないかと。

    竜馬には、会ったことがないから、本当はどんな人だったのか知らないけれど・・・・なんか久々に感動してしまいました。

    お勉強する理由。

    ここの所、私のお仕事はパソコン前でのマニュアル作りという頭脳労働なわけで、久しぶりに頭を使っており…しんどい。

    やらなきゃなならないという追われ感はあるのだけれど、なかなか進まず、進むのは煙草に延びる手のみ。

    気がつくと、本筋と脱線したことばかりが頭の中を駆け巡り、徒然ブログもここしばらく充実できそうです。

     

    子供たちによく「なぜ勉強しなければならないのか?」と聞かれます。

    こんな風に、頭脳労働をしていると、これも一種のお勉強態勢なわけで、これまでは「お勉強は、こどもの義務・役割です」と、上から目線の答えともつかないアンサーを返していた母は、ふと「お勉強ってほんまになんでするんやろう」って、じっくり考えてみたりするのです。(これが脱線の理由・・・思考がつながりすぎて、とんでもない方向にいっちゃうのよねえ〜〜)

    まあ、大人になった私と、子供の彼女たちのお勉強って、その質は似て非なるものなのだけれど、知識の吸収っていう意味ではおんなじです。

    知識を吸収して・・それから?

     

    実社会で生きていくのに、何よりも大切なのは、知識ではなくて知恵だと私は思っています。知恵に一番必要なのは、経験。

    そんな風に考えると、知識ってどこで役に立っているんだろう?

     

    一人の人間の経験値なんて、知れています。一日は誰にも平等に24時間しかなく、一年は誰にでも平等に365日しかなく、その時間の中でできる経験の中でしか知恵が産まれないとしたら、人間ってとっても浅はかなものになってしまう。

    そこに知識っていうフィールドがあったら、同じ経験をしたとしてもそこから生まれる知恵は、いろんな方向に枝分かれをして、とっても豊かなものになる。

    知識があって、経験があって知恵が産まれて、そこから応用が産まれて、想像力に繋がっていく・・・・。自分の経験に、実体験していない経験の付加価値がついて、戻ってくる。

    ほら脱線、お仕事に戻りましょう。